【戦国無双5】無双武将『本多忠勝』のプロフィール・性能などを掲載しています。
徳川家臣。
家康の良き友であり、頼れる右腕的存在。
家康とは対照的に荒っぽく血気盛んで、力強い言動で家康の背中を後押しすることが多い。
通称「平八郎」。「家康に過ぎたるもの」と言われた徳川四天王でも最強の家臣。
本多忠高の長男だが父が戦死し、叔父の忠真の元で育つ。(叔父との死別が三方原のイベント)
初陣は「桶狭間の戦い」で今川の兵糧輸送を任せられた家康と共に成功させる。このとき13歳。
「三河一向一揆」では浄土真宗の本多正信ら一族の多くが一揆勢となる中、忠勝は浄土宗に改宗して家康に従った。
「姉川の戦い」では単騎駆けして朝倉の猛将・真柄直隆と一騎討ちし、「三方原の戦い」でも山縣昌景を破るなど猛将の名に恥じない活躍をみせる。
また「本能寺の変」に際しては信長の後を追おうとした家康をたしなめ、自刃を思いとどまらせた。
「小牧長久手の戦い」でも僅か500騎で豊臣勢16万の大軍を追い散らし、秀吉からも「東国一の勇士」と賞賛された。
「関ヶ原の戦い」では軍監として家康と共にあり、豊臣恩顧の諸将の監視役となり、井伊直政と共に毛利宰相・吉川広家を調略した。
本作でおかしいのは主君の家康は5つも年上で、年が逆なら態度が馴れ馴れしいのも説明がつくが、実際は年下だし身分も低い。
「三河武士」は忠義者の代名詞のように扱われるがそれは忠義が重んじられた江戸時代の影響で、実際は独立自尊心が強く織田や今川も直轄統治出来なかった程。
更に三河衆は家康の父祖と嫡子信康を殺めている。
当時、強兵難治で知られていたのは越後、三河、土佐でそれぞれ謙信、家康、長宗我部元親の支配下で安定し、戦国屈指の強国となった。